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今回は新宿区中井にある林芙美子記念館に赴いた。林芙美子は「放浪記」や「浮雲」などの代表作がある女流作家で、ここの記念館は芙美子が昭和二十六年にその生涯を閉じるまでのおよそ十年間住んでいた家を保存したものである。
中井駅は高田馬場から西武新宿線で二つ目。都営大江戸線で練馬からなら三つ、新宿からでは五つ目の駅である。この大江戸線と西武線では改札がそれぞれまったく違う。記念館へ行くには私が降りた大江戸線のA1出口が一番わかりやすいと思う。
中井というところへははじめて行ったのだが、雑然とした印象をおぼえ。西武線と妙正寺川が並行して走り、その上を山手通りがまたぎ、地下には大江戸線が通る。川から北に向かっては急な上り坂になっており、そんな坂や川や線路を避けて商店街が細長く並んでいる。
はじめて来たついでに、その商店街に二つある本屋にそれぞれ立ち寄ってみた。一軒目にはさすがに新潮社文庫版の「放浪記」が置いてあったが、二軒目には無かった。
坂には山手通りからのびる一の坂から西に向かって順に数字の名前がついており、八の坂まであるようだ。林芙美子記念館はそのうち四の坂に沿って建っている。
わかりづらいが道の角ごとに案内が立っているので、よく注意して見ていれば迷うことはないだろう。

少し歩いただけなのに駅周辺の印象とはがらっと変わり、あたりは静かな落ち着いた雰囲気である。

坂を少し上れば門があるが、ここからは入れない。そこからさらに少し上って、『林芙美子記念館』としての入り口から入ることになる。

受付で入館料を払いパンフレットをもらう。図録や絵葉書なども売っている。ここは建物と庭、それから裏庭のちょっとした植物園だけという極めて小さい施設で、今まで行った文学館の中で一番規模が小さい。その分じっくり見てまわれるともいえるが。
建物は生活棟とアトリエ棟の二つの部分からできていて、それをつなぐ土間が現在の入り口である。入り口とはいうものの建物には入れず、窓や縁側から中を窺うことしかできないのが物足りない。

建物の一番奥は林芙美子の夫で画家であった緑敏のアトリエとして使われていた洋間で、ここが展示室になっており、館内で唯一入れるところである。

ガラス戸を開け中に入ると左手に、林夫妻の嗣子、泰のピアノが置いてある。泰は芙美子が亡くなってから八年後の昭和三十四年に十五歳の若さでこの世を去っている。

展示室はそんなに広くはない。略年譜やこの家で書かれた本などがガラスケースに陳列されている。


展示室には表に寄書集と書かれたノートが置いてある。ここを訪れた人が感想などを書き込むものだ。都内の人から遠く九州の人までと様々な書き込みがあるが、中にはイタリアからの留学生のものなどもある。むこうの大学の卒論で林芙美子を題材にしたと上手な日本語で記されていた。ざっと見た限りではやはり女性の来館者が多いようだ。

この記念館を女優の森光子が訪問したときの写真も飾ってあった。舞台「放浪記」は昭和三十六年に森光子を主演に第一回公演が行われ、それから四十年間主演を代えずに上演され続け、その回数は千五百回を越えたという。
芙美子が死去する前日の、昭和二十六年六月二十七日に撮影された写真もある。この日は雑誌の連載記事のために銀座に行き、それから同行したスタッフの慰労のために深川の鰻屋に行っている。そのときに撮られた写真だそうだ。とても次の日に死ぬようには見えない。

それから気になったものとして、夫の緑敏が芙美子を描いた油絵がある。芙美子が眼鏡をかけてキャンバスにむかっているという絵である。
芙美子は画家になりたかったらしく、自画像なども展示されている。小説家としての才能ほどには画家としてのそれは無かったようだ。
ふたたび庭に出てみる。庭には様々な木々が植えられている。

南側の塀の手前には小さくて細長い池があり鯉が泳いでいる。この家にすんでいるのは今ではこの魚たちだけである。

家の裏側の斜面にもたくさんの樹木が植えられている。石段で上がっていき、家を見下ろす。

さすがに広い家である。いや、当時はこれでも小さかったのだろうか。
林芙美子はこの家を建てるために大量の書物をあさり、建築家や大工を選び、京都まで見学に行き、大変にこだわって設計を考えたという。芙美子は「放浪記」で世間に認められ一躍流行作家となった。そこに書かれているとおり、生まれてからずっと各地を転々とし、上京してからも仕事と住居を次々と変えている。だからこそ家というものに執心したことと思われる。
生前の作家を偲ぶべき資料は、ここにはそう多くは展示されてはいないが、この家そのものが芙美子自身を体現したものだといえるのではないか。
来館者用に別棟で小さく便所が作られており、帰りに用を足そうと男性用に入ったところクモの巣がはっていた。男性客はいないのだろうか。
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