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真庭臣人という厩務員
騎手への夢
厳しさに耐え切れず
自分を変える解決策
初めての担当馬
喜び、悲しみ、誇り
愛馬が壊れた日
それでいいよ
真庭臣人という厩務員
「今も、厩務員の目で馬を見てしまうんだけどね」
今年の六月八日、船橋競馬場で行われた第四レースのパドックを見ていた私に、真庭臣人はそうつぶやいた。
船橋競馬場は東京湾の臨海都市、船橋市にある。スパイラルコーナーと呼ばれる形状(進入角度が大きく進出角度が小さい)をもつコースが独特である。また、距離に変化を持たせるために、内コースと外コースでレースが行われている。すぐ近くには、ショッピングや映画等の娯楽設備が整った「ららぽーと」がある。
「どの馬が勝ちそうですかね?」
「十番の馬がいいと思いますよ」
「俺もそう考えてんのよ」
結果、十番のサンエムグレンという馬は十着だった。お互い気まずくなって、笑いあった。
真庭は、私の友人の兄である。プライベートで接する機会はあまりないのだが、友人を通してごくたまに「一緒に競馬を観戦しないか」という誘いがくる。今回の取材内容には、彼にとって語りたくなかったであろう事柄がふくまれている。その部分の取材が成功した背景には、事情を知って彼を根気強く説得してくれた友人の協力がある。
現在、真庭は、東京都葛飾区にあるコンビニエンスストアに勤めている。彼は、つい一カ月までは、栃木県足利市にある公益足利競馬場で、競走馬の厩務員として働いていた。
足利競馬場は平成十五年三月、来場客数の減少による累積赤字の増大により廃止された。利根川の中流、渡良瀬のほとりに位置し、地方競馬では数少ないスパイラルコーナーを取り入れたコースが特徴だった。JR山前駅から徒歩十分ほどのところにあり、競馬場の周りには田んぼしかない、といった風景が、私には印象に残っている。六日間に千六百八十九万七千三百五十円の売上げを記録したこともあった。開設された昭和五年から数えて七十三年目にして、その歴史にピリオドがうたれた。
足利競馬の廃業に伴い、真庭の厩務員生活にもピリオドがうたれることになった。実をいうと、足利競馬が廃業する以前から、真庭は厩務員をやめることを考えていたのだそうだ。自分の人生において、厩務員時代は、悪い記憶がほとんどだという。所属していた厩舎の調教師との人間関係の悪化、夫人との別居、そして離婚、といった悪い事柄が同時期に次々と起こり心身ともに疲れ果ててしまった。そのなかでも、一番印象に残っているのは、はじめて担当を受け持ったマスターピースという馬を、自分のミスで故障させてしまったことだという。
「厩務員になる前、俺は中央競馬の騎手を目指してたんだ。でも、その夢を途中で投げ出してしまった。大切な場面で、俺という人間はいつもいいかげんなんだよ。そういう自分の中途半端な部分が、厩務員という仕事にもでて、マスターピースを故障させてしまった」
彼はそうつぶやき、今日に至るまでの自分の人生を語りだした。人生の中で、彼は自分の弱さを、競馬を通して知っていくことになる。
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騎手への夢
群馬県桐生市は、群馬県の西部に位置する。「桐生おめし」の紡績で有名なこの町で、真庭は生まれ育った。少年時代は、友達と一緒に鬼ごっこや缶けりをしたり、その当時大ヒット家庭用ゲームとなっていたファミリーコンピューターで遊んだ、ごく普通の男の子だった。
高校へ入学し、まもなくして真庭は実家近くのスーパーマーケットでアルバイトをはじめた。アルバイト仲間から競馬を教えてもらい、そこではじめて競馬を知った彼は、やがて中央競馬の騎手になりたいという思いを募らせるようになる。高校三年の春、両親の目の前で競馬学校騎手課程の入学願書を広げ、印鑑をおしてもらうよう頼み込んだ。最初は大反対だった両親も、息子のあまりにも強い熱意に押されたのか、競馬学校への入学を認めてくれた。
その年の秋、真庭は競馬学校騎手課程第一次試験に、不合格という通知を受けた。試験は、春季募集、秋季募集と一年に二度ある。年間平均三千人の受験者に対し、春、秋それぞれに養成募集人員十五名というただでさえ狭き門だ。真庭は現実を知った。「可能性が低い方よりも可能性が高い方へ」、彼はそう考え、今度は地方競馬の騎手試験を目指しはじめた。ただ、その決断は、騎手への道を諦めきれないという、前向きなものからではなかった。少しぐらいなら妥協してもいいのではないか、という彼の気持ちからきたものだった。
地方競馬の騎手になるためには、地方競馬全国協会が実地する騎手免許試験に合格し、免許を取得しなければならない。免許を取得すれば、各競馬場で騎乗することができるのだが、地方競馬には、現在フリーの制度はなく、全国にあるいずれかの競馬場の厩舎に所属することになる。免許試験を受けるためには、栃木県那須郡の地方競馬教養センター(以下、教養センター)に入所し、二年間の騎乗訓練、専門学(馬体の構造、馬の病気についての知識)の講習を受けなければならない。
中央競馬騎手試験に落ちてから三カ月後、両親の二度目の大反対を押しきり、真庭は地方競馬教養センター騎手候補試験を受験した。試験は、学科試験(国語、社会)、競馬に対する自分の思いを伝えるスピーチ、身体計測、運動機能検査(片足つま先立ち、サイドステップ、懸垂、腹筋)が行われた。この試験に真庭は合格し、地方競馬教養センター騎手候補生となった。
厳しさに耐え切れず
教養センターの一日のスケジュールは、真庭が予想していたよりも厳しいものだった。早朝五時三十分の起床は慣れることはなく、起床からわずか十分後に行われる検量、点呼、体操の間も眠気は覚めなかった。ただ、点呼だけは「しっかり起きてるぞ」という雰囲気を見せないと、教官にひどく叱られるので、なかばおたけび同然の発声で返事をした。六時三十分になり、厩舎作業をしている途中でようやく眼が覚めてくる。馬に朝飼(馬が朝食べる飼葉。レース当日では、厩務員たちはこの飼葉を勝負飼葉と呼んでいる)を与えたあと、自分の朝食を済ませる。朝食の間、リラックスすることは許されない。騎手という職業は馬に騎乗する際、常に理想的なフォームを保たなければならない。そのため、食事も背筋を伸ばして、姿勢よく済ませなければならなかった。十時三十分からの騎乗訓練では、飲み込みの遅い者は、つまずいた段階で、できるまでいつまでも同じことを繰り返す。真庭も、はじめはなかなか飛び乗り(馬にまたがること)ができず、焦りイラ立った。教官からは、「このばかやろう。おまえの焦りがそのまま馬に伝わっているんだ。馬を不安にさせると余計に上手くいかなくなるぞ」との声がとぶ。泣きっ面にハチだった。
昼休みを挟み、午後十二時四十分からは再び厩舎作業に入る。真庭が厩舎作業で一番好きだったのは馬の体を洗っているときだった。本人いわく、「水にぬれた毛並みのさわり心地がたまらない」のだそうだ。
十三時十五分からの学科でうたた寝し、三度「たまらない」厩舎作業へ向かう。十七時、夕食を摂る。入浴を済ませ、十九時十五分に夜飼付をする。最後に点呼を取る。一時間の自由時間を過ごし、二十一時三十分に就寝する。しかし、朝、昼、夕と徹底された「精進料理」に、育ち盛り、わんぱく盛りの十代の若者が我慢できるはずもなかった。就寝時間中に、仲間たちとこっそり部屋を抜け出し、近所の駄菓子屋にお菓子を買いに行くこともしばしばあった。そんな毎日がすぎていった。
入学から三カ月がたち、教養センターの厳しさに耐え切れず、退寮する者もでてきた。退寮者のなかには、はるばる鹿児島からやってきた者や、父親が地方競馬の騎手をしている者もいた。真庭も、教養センターでの日々に、限界を感じていた。しかし、入学金を払ってくれた両親のことを考えると、退寮の決断は鈍った。それでも、日課時間が春から夏へと変わり、起床時間が一時間はやくなったことがきっかけとなり、真庭は教養センターを退寮することになる。
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自分を変える解決策
教養センター退寮後、競馬の世界から離れた真庭は、一人暮らしをしながら千葉県市川市のパチンコ店で働きはじめた。退寮直後、職もなかった彼を、実家の両親は少しも責めず、群馬へ帰ってくるよう薦めた。しかし、彼には、両親に金銭的負担や迷惑をかけたくない、という思いがあった。
昼間は、パチンコ店で、客のごきげんとりとヤジへの対応をする。夜は仕事仲間と居酒屋へいく。教養センター退寮後、一年間はそんな毎日が繰り返された。そして真庭は、この日々に感じる自分の気持ちと、退寮直前に教養所で抱いていた気持ちとが、さほど変わらないことに気づいた。
「日々の生活のなかにまるで充実感がない。このままでいいのだろうか。もとはといえば、今俺が置かれている現状は、夢から逃げた俺自身がつくりだしてしまったものだ。結局、少しの逆境に立たされただけですぐに目標を諦めてしまう。そんな弱さを持っているのが自分いう人間なのだ。自分自身に甘えている」
そう考えていたとき、目標をしっかりやり遂げることこそが弱い自分を変える解決策なのではないか、と彼は思った。
「俺が目標にできるのは競馬しかない。もう一度、競馬の世界へ」
二十歳の冬のことであった。
といっても、真庭にはもう一度、競馬学校や教養センターへ入るための入学金を用意できるほど、金銭的余裕はなかった。パチンコ店でなんとか毎日を食いつないできた一年間だったので、貯金をしようと考えたこともなかった。熱いうちに打てといわれるのが鉄なら、騎手は体の柔らかい若いうちに、様々な技術を身に染み込ませることが重要とされる。「今の生活のままでは、入学金を支払える頃には、自分は何歳になっているか分からない」。そこで彼は、地方競馬の厩務員を目指すことを考える。雑誌の求人欄に載っていた北海道岩見沢にある生産牧場に、片道の電車賃だけを握りしめて向かった。
地方競馬の厩務員になるための試験はない。厩舎を管理する調教師と直接雇用関係を結ぶのだが、なんの経験ももたないまま調教師に会いにいっても採用率は低い。そこで牧場での修行経験が必要になるわけである。
北海道での修行を終えた真庭は、牧場から紹介された厩舎へ所属する。公営足利競馬の山口修厩舎(現在は解散)というところで、厩舎のある足利競馬場は、群馬の実家からは電車を五駅経由すればいける距離だった。
厩務員は、馬の世話をする職業である。調教師のもとで、担当馬の飼育管理、運動、手入れおよび馬房掃除等の厩務作業を行う。午前二時の寝ワラの取替えからはじまり、馬房の掃除、馬体チェック、引き運動、のり運動、調教が済んだらクーリングダウンと、帰宅時間の十八時まで、馬に付き添う生活を真庭は送っていた。
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初めての担当馬
山口厩舎に所属して一年がたった平成七年の立春、真庭は山口調教師からデビューを控えた一頭の牡馬を紹介される。マスターピースという鹿毛(鹿のような毛色)の馬で、この馬が彼にとって初の担当馬となった。
マスターピースが生まれたのは、北海道三石にある高田牧場というところで、父はイナリワン、母はハーモニースタークという馬である。父のイナリワンは、地方競馬出身の馬で、昭和六十一年、公営大井競馬場でデビューすると、一年後の東京湾カップというレースまで地方競馬八連勝を飾った。平成元年には中央競馬へ移籍し、その年の天皇賞(春)、宝塚記念、有馬記念を制した。中央は十一戦して三勝の成績を残している。勝ちより負けが多かった。しかし、その三勝すべてがGTという、本番に強い、すなわち勝負強いことで有名な馬だった。
母のハーモニースタークは、現役時代、中央で四勝をあげた馬で、引退後は高田牧場に繁殖牝馬として迎えられた。こちらは、折りがみつきの名牝というわけではなかった。
真庭がマスターピースをはじめて見て抱いた印象は、「ずいぶん脚下と繋ぎの短い馬だな」というものだった。繋ぎとは、人間でいう足首の部分にあたり、競走馬はこの繋ぎの部分を激しくスナップさせて走る。繋ぎの短い馬にはダート馬が多い。それは足利競馬場向きでいいのだが、もうひとつの特徴が心配になった。一般的に脚下が窮屈なタイプの馬は、故障の可能性が高いといわれている。「無事に走ってくれればいいのだが」、そんな不安が胸をよぎった。
春になって、デビューを控えた二歳馬たちの調教が、足利競馬場内で行われた。デビューするまでの数カ月ほどのあいだ、競走馬はいろいろな調教を積まれていく。
ゲート練習を積み重ねながら、二週間に一度くらい、直線だけの速いキャンター(駆け足のこと)をやる。併せ馬(他の馬と並んで走ること)をするようになり、三ファロン(六百メートル)、半マイル(八百メートル)を走る。そして、ゲート試験を受ける。無事合格したら、レースへ向けてビッシリ仕上げられていく。
マスターピースが出した三ファロンのタイムは、四十八秒だった。地方競走馬としては遅いタイムだった。「一勝か、二勝できりゃいいほうだな」。山口調教師は真庭にそういった。
マスターピースのデビュー戦は十着に終わった。十月八日、足利競馬第四レース二歳新馬戦で千二百六十メートルの距離を走ったが、最後の直線半ばで失速した。
厩務員の収入は、基本給、諸手当(勤続手当、家族手当)、期末手当(ボーナス)のほか、進上金がある。基本給与に期待を寄せられない厩務員たちにとっては、それに上積みされる進上金で生活レベルが変わる。担当馬を預かる厩務員が得ることのできる進上金は、地方競馬では一着の場合、賞金の五パーセントだ。未勝利を勝った賞金が百万円だとすると、厩務員の進上金は五万円だ。二着だとその四十パーセント、三着は二十五パーセント、四着は十五パーセント、五着は五パーセントだ。一着から五着までが入着とされており、それ以下の順位だと、進上金はない。
「うまいもん食わしてくださいって、よくあの馬にお願いしてたよ」
当時を振り返り、真庭は笑いながらそう語る。
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喜び、悲しみ、誇り
その後、二戦目六着、三戦目十一着、四戦目二着、五戦目三着、とマスターピースは一年を通して、まずまずの成績を残した。それは、調教開始当初、「現役(競走馬の現役期間は、平均三年間から四年間)を通して一勝か二勝できればいいほう」、という山口調教師の、ほぼ予想通りのものだった。
「一年一緒にいて、マスターピースの性格もわかってきた。普段は隣の馬房に首を伸ばして嘶いたり、洗い場で俺の手に噛み付いたり、やんちゃな馬だった。パドックではモノ見(集中力を切らすこと)したり、レースをすれば走行中騎手を驚かせようとし尻っぱね(両後ろ脚を高く蹴り上げること)をしたりした。引退するまで、あの幼稚な部分は変わらなかった。ほんと、俺をひやひやさせた馬だったよ。まともに走ってくれなきゃ、進上金も期待できないからね。でも出来の悪い馬ほどかわいいもんで、初勝利のときは首に抱きついて誉めてやったよ」
その、首に抱きついて喜んだ初勝利は、三歳の八月六日にもたらされた。真庭の二十三歳の誕生日の、四日前のことだった。七戦目となる三歳C3クラスの未勝利戦でのことだった。千二百メートルの距離を、スタートしてからゴール盤を通過するまで、マスターピースは他のどの馬にも先頭を譲ることなく駆け抜けた。レース後、ウイナーズサークルで記念撮影をし、検体検(ドーピング検査)も無事終了した。真庭は、なんとも言いがたい喜びを感じた。同時に、厩務員としての自信を深めた。
初勝利の夜、厩舎の人たちみんなで、マスターピースの祝杯を挙げた。厩舎内にある真庭の舎宅で行われたのだが、その時、山口調教師は真庭に、マスターピースのことについて語った。
「ほんとうなら、去年のうちに初勝利していたはずなんだぞ。あいつ(マスターピース)は血統的に見ても早熟なんだから。今までかかったのは、おまえの管理がしっかりしていなかったせいなのかもな」
まったくの言いがかりだった。真庭は、マスターピースに限らず、与えられた仕事はすべて、厩務員としての誇りを持ってしっかりとこなしていた。そもそも、学士上がりで調教師になった山口調教師は、それまでは馬に触れたことすらなかった。教養センター、牧場と、馬に接する機会が多かった真庭とは、競馬に関しての意見が食い違うことも、以前からしばしばあった。その度に真庭は、かつて競馬で挫折し、今もまだ、目標を達成したという明確な確証を得られていない自分を、指摘されたような気がして無性に腹が立った。しかし、真庭は、この舎宅での祝杯のときはなにも反論はしなかった。結婚も決まり、これからは家族を守っていかなければならない。彼は、「口論がきっかけで職を失い、妻に苦労をかけるようなまねだけはしたくない。それに、人間関係でのいざこざも、厩務員として、社会人として当然の苦労なのだ」と、自分に言い聞かせていた。
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愛馬が壊れた日
マスターピースが故障を発生した日のことを、真庭はよく覚えているという。その日は足利競馬場の休催日で、コース内に設置されたプール、児童遊園地、ソフトボール場、野球場には、夏休みのせいか、いつもより人がたくさんいたという。「地方競馬では開催のない日には、場内の公園やスポーツ施設が一般の人たちのために開放され、初心者や女性を対象に乗馬教室を実地し、馬を通して地域社会との親睦を深めている」(インターネットの地方競馬全国協会公式サイトより)。この日、仕事がオフだった真庭は、しなくていいと言われたのだが、一応朝の作業をひと通り済ませた。マスターピースの朝飼を付けた。いつものように、朝飼は燕麦に配合飼料を足したものだった。燕麦というのは、現在、世界中のほとんどの国で、競走馬の飼葉として使われている麦の種類である。「燕麦は繊維分が十一パーセントから十二パーセント含まれており、これはすべての穀物のなかで飛びぬけて多い」(矢作芳人著『トレーニングアシスタントの雑記長』より)。繊維の少ない飼料を食べさせると、馬は簡単にせん痛(肉体的、精神的なストレスからくる腹痛のこと)を発症する。そのため、競馬関係者は、燕麦こそが一番安全な穀物だと考えている。「配合飼料は、年齢、馬の状態、成長段階等に合わせて、星の数ほど種類が多い。内容はバラエティーに富んだ食物を混ぜ合わせていて個々の馬の好みにも合わせられる」(同上)。
朝飼が終わり、寝藁の取り替え、馬房の掃除をし、検温を行った。「三十七点六度。以上ない」。それから、真庭は久しぶりに群馬の実家へ顔を出そうと考えた。実家へは、足利競馬場の東出口を出て、JR山前駅から電車で行くことにした。東出口で、他の厩舎の顔見知りの厩務員に声を掛けられた。
「ようっす。真庭ちゃん、近頃調子はどうよ?」
「全然、さっぱりっすね。ウチ(山口厩舎)、今年まだ八勝っすよ。そちらはどうなんすか」
「ウチも厳しいよ。昨日なんか馬がゲート入りゃしねえしよ。スターター(NPA発走委員。ゲート調教はNPA発走委員と相談しながらすすめていく)も首ひねってたよ」
「そりゃ大変っすね」
実家の両親は、一度失敗した競馬関係の仕事をしている息子を心配していた。しかし、彼が最近の近況報告をすると、いくらかは安心したような顔をした。
マスターピース故障の知らせを受けたのは、実家から競馬場に戻ってきたときだった。故障当日、真庭の代わりにマスターピースを世話していた先坂厩務員から伝えられた。屈腱炎だった。昼間、馬房を掃除していた先坂厩務員が、マスターピースの左前足にある腫れに気づいたことから発覚した。「屈腱炎とは、馬の前脚にある屈腱と呼ばれる腱の内部に微細な断裂が入り出血し、血腫(血マメのようなもの)ができ、そこに炎症が起こる病気で、腫れや痛みを伴う。一度損傷した屈腱組織は修復されたとしても、完全に元のきれいな配列の組織に戻ることはない。また、ほぼきれいな配列に戻るためには長時間が必要である」(森下常吉著『馬医学』より)。
真庭は自分を責めた。「俺の日々の管理ミスだ。すぐに異変に気づいていれば、こんなことにはならなかった」。悔やんでも起きてしまったものはもう、どうすることもできなかった。山口調教師や同僚の厩務員たちからは、「留守中のことだ。お前のせいじゃない」と、慰めの言葉を掛けてもらった。しかし、気分が晴れることはなかった。マスターピースをはじめて見たとき、真庭が抱いた「無事に走ってくれればいいんだが」という心配は的中してしまった。
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それでいいよ
山口厩舎は、故障発生当日のうちに、マスターピースの現役引退を決断した。復帰まで長時間を要し、たとえ復帰しても以前のような走りができる可能性の低い馬を待っていられるほど、山口厩舎に金銭的余裕はなかった(山口調教師の調教技術は、足利競馬全体を通して、それほど良いほうではなかった。開業八年目を迎えたこの年、山口が預かっていた馬は、マスターピースを含めて三頭だった。馬の成績が悪ければ、厩舎側に振り当てられる賞金は少なくなる。一着の場合、賞金の二十パーセントが厩舎側に振り当てられる。五着以外の場合、厩務員の進上金と酷似していて、ほとんどと言っていいほど金は入ってこない。もちろん、自厩舎の所属馬が少なければ、良い成績を残す馬を育てる確率は減少する)。馬主に振り当てられる賞金は、一着の場合で賞金の八十パーセントだ。それが自身に振り当てられないどころか、長期間、マスターピースによる賞金さえ望めなくなることは、マスターピースの馬主とて同じことで、厩舎側の提案に迷うことなく同意した。
その後、マスターピースの一件で厩務員のプライドをなくし、夫人との離婚もあった真庭は、山口調教師になにか注意や指摘を受ける度に、今まで溜めこんでいた思いを、そのまま山口調教師にぶつけるようになった。足利競馬廃止の今年四月までに、山口調教師との関係は最悪なものになっていた。
「マスターピースには、本当に悪いことをした。そもそも、俺がきちんと目標を達成できる人間だったら…。いや、これも言い訳かな」
うつむきかげんに、彼はそう言った。私が、厩務員時代と今で競馬の見方は変わったか、変わったなら今の競馬に対する意見はあるかと聞くと、彼は、「変わってないね。馬が無事に走ってくれれば、それでいいよ」、そう答えた。
マスターピースは、現在、群馬県勢多郡富士見村にある赤城レオナルドダビンチ乗馬練習場というところで、乗馬用の馬として活躍している。屈腱炎もほぼ完治し、人を乗せて歩行できるまで回復した。相変わらず、やんちゃな性格だそうだ。
参考文献
『地方競馬史T』
『地方競馬史V』
『トレーニングアシスタントの雑記張』(矢作芳人著)
『名馬の耳につむじ風』(北野義則著)
『厩舎稼業』(小林常浩)
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