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「虚」の華やぎ−富嶽百景のバックグラウンド−
第3章 3話 二人を結ぶ紐を切ったのは誰か

著・吉田和明
(04年04
月12日公開


野原さんの『回想太宰治』の成立について、一ついい忘れたことがあります。それは、「あとがき」において、「取材に当っては、多くの人のお力添えをいただいた。」とありましたが、そこで並べられていた多くの人の中に、山岸外史の名前がないことです。いや、ごめんなさい。それは、当然なことなわけです。山岸さんは、すでに亡くなられていた。
 野原さんのこの本は、昭和五十五年の五月に出ています。で、野原さんがこの本を書きはじめたのは、昭和五十三年の七月に勤めていた筑摩書房が倒産し、「残務整理や事務の引き継ぎなどを終え、役員の一員として責任をとって」、十一月半ばに退社して以降になるわけです。いや、もう少しあとかもしれない。「あとがき」から引用しておきましょう。
 「それから(退社してから─筆者注)間もなくの十二月のなかばに、私は熱海に臼井吉見氏を訪ねた。筑摩書房在職中、編集顧問をしておられた臼井さんに私はずいぶんお世話になった。その御礼と、退社についての挨拶をするため臼井さんをお訪ねしたのだが、そのとき臼井さんから、今後のことを問われ、太宰治を書きたいと思っていると私は答えた。それはいい、と即座に臼井さんは言って下さった。きみはいつかは太宰のことを書かなくちゃいけなかったんだ、いい機会がめぐってきたと思わなくては。筑摩の倒産は残念だが、きみにはかえってよかったじゃないか。ぜひ、書けよ。来年の一月一日から書け。いいか、一月一日からだぞ。臼井さんはそう言って下さった。この臼井さんのお言葉は、有難かった。」
 臼井さんの言葉にしたがったとするなら、野原さんは昭和五十四年一月一日から、この『回想太宰治』を書きはじめたことになります。取材協力者として名前が並べられていた方々と、接触を試みられたのは、ですからそれ以降のことになるのでしょう。で、実は、そのときには、山岸外史さんは亡くなっていた。山岸さんは、昭和五十二年の五月に亡くなられています。ですから、取材協力者のなかに、山岸さんの名前がなくて当たり前なわけです。
 僕がこだわるのは、もしそのとき、まだ山岸さんが生きておられて、野原さんが山岸さんにも取材していたとしたら、はたしてどうなったか。「口もとにうかぶ微笑」の章は、ああいう形にはならなかったのではないか。当の太宰の死顔の〈口もとにうかぶ微笑〉自体に無理があることは、見てきたとおりです。山岸の『人間太宰治』の「微笑する死顔」の章自体についても、太宰の死顔の〈口もとにうかぶ微笑〉へと持っていく、その持って行き方自体に無理があることを、僕は指摘しておきました。むろん、山岸さんは、僕の指摘したようなことは、晩年、いや「微笑する死顔」の章を書いていたそのときから、気づいていたと思う。『人間太宰治』は、昭和三十七年の本ですよ。それから、二十年近く経って、いまさら〈口もとにうかぶ微笑〉でもないだろう。山岸さんは、おそらく、そうアドバイスしたのではなかったか。いや、むろん、そのときまだ山岸さんが生きておられて、野原さんが取材協力を求めたとしたら、ですよ。僕は別に、恐山のいたこではありませんけれども(笑)、きっと山岸さんは、そうアドバイスしただろうなと思います。
 それから、あのN、N、Kの部分は、使わないでほしいと申し入れたと思うんですね。長篠さんに答えられたように、「ある出版社の編集者から、自分も現場に居たことにしてほしいと懇願されて、やむなく仮名を用いた」のであったなら、なおさらにです。僕は、そう思います。

 この件については、まだ話していないことが一つあります。いや、お待たせしましたというべきか(笑)。皆さんも、なぜこのことに触れないのかと、不思議に思っていたかもしれない。それはですね……。山岸『人間太宰治』のなかの「微笑する死顔」を、長篠さんが簡略して引用した。僕は、先に、それを引用しておきましたが、そのなかに、実は誰が太宰と富栄を結ぶ紐を切ったかが描かれていました。こんなふうにです。
 「『今朝方、四時半頃に通行人が発見して、すぐ交番に連絡してくれたのです。そこから本部に連絡があって、それですぐ駆けつけて、引き揚げたんです』N君がそういった。/『ひき揚げたとき、太宰先生と富栄さんの腰に、赤い腰紐がむすばれていたのですが、その紐はナイフで、ぼくが切りました。山岸さん。このことは誰にもいわないでおいて下さい』K君が早口にそう言った。/『ことに新聞社には、ぜったい秘密にしておいて下さい。お願いします』NもK君も、口をそろえてそういった。」(注1)
 つまり、幻の出版社(笑)、展望社のK君が切ったのですよ。K君というのは、野原のいうところでは、筑摩書房の石井立だということになります。先にその部分を引用しましたように、野原は、三人のうちの誰かであったが、誰だかわからない、といっているわけです。僕が、長篠さんの「富栄の六月十三日付日記が、そのヒントになると思われた」をヒントに、空想したところでは(笑)、八雲書店の亀島貞夫さんだということになる。しかし、野原の『回想太宰治』によると、そのとき亀島さんは土手の上にいたことになっている。「口もとにうかぶ微笑」の章に、次のようにあります。
 「霊柩車と寝棺が到着したのは九時半に近かった。その頃、わずかな時間だが、雨がやんだ。寝棺を下におろし、そのなかに遺体をおさめ、丸太を組んだレイルを土堤の斜面に匍わせて綱で寝棺を引き揚げる、その作業がはじまった。邪魔になるので私たちは土堤の上にのぼった。/そこには、かなりの数の人がきていた。出版関係の人が多く、八雲書店の亀島君、鎌倉文庫の常田君、そのほか顔見知りの編集者も何人かいた。お弟子の戸石泰一さん、菊田義孝さんなども見えていたのではなかったか。」
 いや、誰が切ったのかを想定することが可能であるためには、あくまで山岸さんが、この「水際の、わずかばかりの地面」での会話を、創作ではなく、事実として書いたのでなければならないわけですね。蓆をかけられた太宰と富栄さんの遺体の側での、三人との会話をですね。だけれども、実は、僕はあまり信用していないんです(笑)。山岸さんのそれも、それから野原さんのそれもですね。どういうことかというと……。
 たとえば、山岸さんが『人間太宰治』を出されたのは、昭和三十七年のことです。「ある出版社の編集者から、自分も現場に居たことにしてほしいと懇願されて、やむなく仮名を用い」て、書いたのはですね。で、この本は筑摩書房から出ています。先に、僕は、野原さんが担当編集者だった可能性がある、と書きましたが、石井さんだったのかもしれない。いや、別にその二人でなくてもいいのですが、それが書かれたときに当然、野原さんにしろ石井さんにしろ、それが自分のことだとわかるわけですよね。自分の勤める出版社から出る本ですものね。関わりのある太宰に関する本なのだから、興味がないはずがない。としたら、そのとき、野原さんが『回想太宰治』のうちに書かれたようなことは、当然、野原さん、確認したと思うんですよね。なにしろ、山岸さんの本には、石井さんが切ったと書かれているわけですから……。野原さんは石井さんに、そのとき確かめたはずだ。記憶が定かでは、なくなっていたらですね。いや、本人に聞いたか聞かなかったかは、別にしてもいいですよ。としても、〈ああ、確かにあのとき石井が切ったんだ〉と記憶がよみがえり、強化されるはずですから、野原さんが『回想太宰治』を書いた時点で、誰が切ったかわからないなんてことはないはずです。考えられるのは、その昭和三十二年の時点で、三人が三人とも、野原さんが『回想太宰治』のうちに書いたように、すでに誰が切ったのか、わからなくなっていた。そして、書かれていた内容について、なんら確認しようともしなかった。むろん、石井さんが切ったというのは、山岸の創作であるという可能性もあるわけですが……。
 いや、山岸は石井さんが切ったとはいってない。展望社のK君が切ったといっているわけです。その展望社のK君が石井さんだと知っているのは、野原さんだということです。あとは、野平さんと当の石井さんだということです。野原さんの『回想太宰治』に書かれた名前の特定が、事実だとしたならばですね。で、事実だとしたら、昭和三十二年の時点で、誰が切ったのかわからなくて、確認することもなく、ずうっとそのまま『回想太宰治』を書く時点まできてしまった、ということですね。山岸さんにも、確かめることなくです。そんなことは、考えられるでしょうか。野原さんか、石井さんが担当編集者だったら、なおさらにです。
 僕もまた、〈山岸さんの『人間太宰治』は、筑摩書房から資料を提供されて、こういうように書いてくれというコンセプトを提示されて、そうして書かれたものだ〉と、思うわけですよ。特に、「微笑する死顔」の章については、それが強いのではないか。「ある出版社の編集者から、自分も現場に居たことにしてほしいと懇願されて、やむなく仮名を用いた」のであったなら、なおさらに、山岸さん、この章は書きずらかったと思います。

 僕は実は、太宰と富栄を結んでいる紐を切ったのは、この三人のうちの誰でもなかったと、思っているのですよ。いや、この三人が三人、遺体引き揚げ現場にいたということにも、疑問を持っている。ナイフであろうが、あるいは鎌や鉈やはさみであろうが、太宰と富栄をむすぶ紐を切った人間が、そのことを忘れるわけはありませんよ。ですから、K君が紐を切ったというのは山岸の創作だし、三人のうちの誰かが切ったというのは野原の創作だと思う。
 野原さんのそれは、文章の構成上においても、三人のうちの誰かが切ったとしなければ恰好がつかない。というのも、話はこう続くからです。
 「……私たちのうちのひとりが紐を切った。その男が、この紐は切ろうじゃないかと言う。あとのふたりは異口同音に賛成する。なぜか? なぜだったのか? 紐で結ばれている太宰さんの姿を人目に曝したくないという気持が、咄嗟に働いたのだろう。おおむねの新聞は、太宰治の死を“情死”として書きたてていた。その無智で卑俗な世間の目から太宰治を守るためには、紐は切られねばならなかった。あの異常な状況のなかで、咄嗟にその判断がひらめいたのだろう。またあるいは、そのときの私たちには、富栄さんへの憎しみがあったかもしれない。太宰さんを奪られてしまったという憎しみが。紐でなど結ばせておくものか、そんな怒りにも似た気持も、なかったとはいえない。」
 これでは、三人のうち誰かが切ったことにせざるをえないでしょう。

 では、誰が切ったのか。
 僕は、引き揚げの実質的な作業をしていた、人夫の人たちのうちの誰かだと思います。それが、一番、自然なんです。次のような新聞記事があります。これは、太宰と富栄さんの遺体が揚がった翌日、六月二十日付読売新聞朝刊の記事です。「太宰氏の死体発見 死してなお離さぬ富栄さんの手」という見出しがつけられています。
 「……(太宰は─筆者補足)富栄さんのわきの下に手をとおしてしっかりと抱きしめ、黒のブラウスに白いスカートをはいた富栄さんは、右手を太宰氏の首にまいたままほとんど全身を水につけてクイにひっかゝっていたが、二人は腰の辺りを腰ヒモでしっかりとつないであった──と死体を引揚げた人夫たちは言い、太宰氏側の関係者は二人が結ばれていたことを強く否定した。早朝発見された二人は個人の意に反してすぐ引離され、太宰氏だけ熱心な雑誌社で用意された棺に入れられていたが、富栄さんは、正午すぎまで蓆をかぶせたまま堤の上におかれ、実父山崎晴弘(七〇)さんが変り果てたわが子の前にたった一人、忘れられた人のように立っていた。二人の死体があがったことは直ちに太宰夫人にも知らされたが、夫人は家の奥にひっこんだまま姿をみせず、人を介して『灰になるまで見たくないのです』と言った。」
 問題は、この人夫たちがいったという前半部分です。太宰は「富栄さんのわきの下に手をとおしてしっかりと抱きしめ」、「富栄さんは、右手を太宰氏の首にまいたまま」といった恰好で、見つかったわけですね。当然、こうして抱きあったまま、死後硬直を起こしていたと考えられるわけですから、人夫さんたちは二人を引き剥がすのは大変だったでしょう。そう思いますよね。あのー、皆さん今、頷かれましたね。つまり、そういうことなんです。僕は、今、「人夫さんたちは……」といいました。それが自然だからです。そして、皆さんも頷かれた。人夫さんたちの仕事だろうなと、思われたからですよね。そういうことです。で、その作業の中途に、二人をむすぶ紐を切るという作業があったとしても、不思議ではない。どちらにしろ、二人を離さなければ、お棺に入れることもできない、わけですからね。むろん、紐も切られなければならない。で、引き剥がし、紐を切った二人の遺体に、蓆をかける。人夫さんたちは、そうした一連の作業を、こなしたと思います。
 僕が、野原さんの『回想太宰治』の「口もとにうかぶ微笑」の章で、不思議に思うのは、三人は、「水際の、わずかばかりの地面に、抱きかかえるようにして遺体を引き揚げる」作業に、参加しているわけですよね。しかし、こうして抱きあって死後硬直を起こしている二人、あるいはその二人を引き剥がす作業に対する記述がないことです。野原さんも、現場に着いたときのことを、こんなふうに書いているわけです。
 「私たちはそこに走り寄った。目の下の、水が打ち寄せるあたりに、わずかばかりの平らな赤土の地面があり、そこに、千草のおじさんと、人夫らしい人が何人かいて、死体を岸に引き寄せようとしていた。私たちは土堤の雑草を辷りおりて、その地面に立った。すぐ目の前に太宰さんと富栄さんがいて、流れのまにまに浮きつ沈みつしていた。太宰さんが上におおいかぶさるようになってワイシャツの背中を見せ、その下に富栄さんがいた。」
 つまり、この、「太宰さんが上におおいかぶさるようになってワイシャツの背中を見せ、その下に富栄さんがいた。」というのは、暗に、二人は抱きあっていた(注2)、ということをいっているわけでしょ。その抱きあって死後硬直を起こした二人の遺体を、引き揚げたわけですよ。こんなふうに書いていましたよね。
 「水際の、わずかばかりの地面に、抱きかかえるようにして遺体を引き揚げるとき、噎せるほどの異様な臭いが鼻をついた。それは、形容できないような、異様な臭いだった。膨れあがって白くふやけた遺体は、指先がめりこむほどで、こすれると皮膚がはがれ私たちの雨着に付着した。」
 しかし、その文章は、抱きあった二人を引き剥がす作業をとばして、すぐに、次のように続くんです。
 「……こすれると皮膚がはがれ私たちの雨着に付着した。私たちは遺体をおじさんが用意したシートの上にねかせ、蓆をかけた。その遺体は、──いや、遺体についてこれ以上記述することは遠慮しよう。ただ、ふたりのからだが、腰のところで、赤い紐でしっかりと結ばれていたことだけを言っておこう。」
 で、話は、紐を切ったのは、誰だかわからないが三人のうちの誰かだというところに、つながっていってしまう。さて、「おおむねの新聞は、太宰治の死を“情死”として書きたてていた。その無智で卑俗な世間の目から太宰治を守るため」に、そしてまた、「太宰さんを奪られてしまったという(富栄への─筆者補足)憎しみ」から、三人のうちの誰かによって紐は切られたと、野原はいうわけですが、抱きあったままにしておいたら、いくら紐を切ったって、意味はないじゃないですか。「無智で卑俗な世間の目から太宰治を守るため」には、抱きあった二人を引き剥がすとともに、二人をむすんでいる紐を切るということが必要なわけですよ。そうでなければ、目的を達することはできないわけです。だから、僕は、野原さんの書いていることに、あれ? って、思っちゃうわけですよ。紐だけ切ったって、意味がないわけですよ。
 まあ、野原さんは「太宰氏側の関係者」ですから、二人が抱きあっていたことはおろか、「二人は腰の辺りを腰ヒモでしっかりとつないであった」ことも、否定したい立場の人であるわけですよ。引用した新聞記事にも書かれていましたよね。「太宰氏側の関係者は二人が結ばれていたことを強く否定した」と。その気持は、わからないことはないのです。しかし、事実を隠蔽せんとすると、どこかに無理が出て、この野原さんのそれのように、文章そのもののリアリティがあやしいものになってくる。

 ところで、山岸外史『人間太宰治』では、山岸が現場に到着したとき、太宰と富栄の遺体を引き揚げた「水際の、わずかばかりの地面」には、N、N、Kの三人しかいなかったように書かれています。
 「……その崖のうえから下をのぞいてみると、雨に濡れきっている傾斜面の雑草のさらに下の方に三四米の石垣のあることがわかった。そこにわずかほどの低い赤土の台地があった。……その台地に三人の若い男たちが、雨に濡れながら、立っていたのである。/死体はどこにあるのか! ぼくはその三人の近くを眺めまわした。蓆をかけたひとつの大きな塊りが、その台地の水辺、男たちの近くにあったのである。」
 で、話は、K君が紐を切ったと山岸に告げ、またその紐の話は秘密にしてくれといい、そのK君とN君が、特に新聞社には秘密にと「口をそろえて」いう。そして、太宰の死顔を見せろ見せないの話に接続していく。その応対は、山岸と三人との間でだけ行なわれている。また、他の人がそこにいたようには、書かれていない。野原の文章には、千草のおじさんと人夫たちと自分たち三人が、引き揚げの作業をしたように書かれていた。むろん、ここには山崎家側の人もいたわけですが(注3)、それはさておくこととしてですね(笑)、千草のおじさんと人夫の人たちは、このときどうしてしまったんでしょう。とにかく、山岸が着いたときには、この水際の「低い赤土の台地」にはいない。で、山岸は、死体を見ることになるわけです。こんなふうに書かれています。
 「その蓆をすこしほどはねあげて、その暗い奥を覗いてみた。……暗い蓆の下に最初にみえたものは、泥にまみれて、ひどく膨れあがっている遺体の臀部であった。半ズボンが濡れて、泥土に汚れていた。腐敗臭がまた、鼻をついた。太宰なのか山崎富栄さんなのかよくわからなかった。言葉はわるいが、豚のように肥え太って、濡れたままで、腰をまげてよりそっていた。そのすぐ奥にも、ひとつ死体があったのである。二つの遺体は、擁するように密着していたが、すぐにはどちらともわからなかった。頭部は蓆の奥の方にあって、やや暗かったのである。二人とも腰をくの字にまげていた。ひとつはすこしばかり仰のけになっていた。刹那にはその判定がつかなかったのである。水中に五日あったから蓆をあげるのにつれて、いっそうの死臭を放った。匂いは鼻孔に迫った。さらに、すこし蓆をあげてみたのだが、逡巡(ためらい)があった。死者への敬意なのだろうか。/かなりよくみえてきた。そのひとつの横顔には濡れている髪がべったりとからみついていたが、まだ男女の差別はよくわからなかった。/すでにその手足は二人とも死後硬直をおこして、異様な形に肘をまげ、躰はぐったりしていたのである。なかばひらいている指の形も、固く動かなかった。二人ともポロ襯衣(シャツ)をきていることがわかった。半ズボンであった。濡れ汚れて張りきっているようにみえた。その腰のところに、たしかに赤い腰紐がみえ、切断された部分が脇の下にだらりと下っていた。それも泥土に汚れていた。ぼくは念のためと思って、いっそう蓆をあげてみた。落ちつけ、おちつけ、と自分を励ました。はじめ臀部のあたりからみた半ズボンの死体より、すこし奥になって抱かれるようによりそわれている屍体こそ、まぎれもなく太宰だったのである。雨の日の光線の具合か、ひどく茶色の頬にみえた。髪はその頬にもべったりとからみついていた。その黒い乱れた髪で、はじめは女の顔のようにもみえたのである。ふたつともひどく似た重い物体の印象だった。情死とは、こういう悲惨なものかとあわただしく思った。蓆のむこうの明るくなっている端に青くひかる水流がみえ、やや奥の太宰のなかばひらかれて、固くなっている左手の指が、すこしほどその水に濡れて、洗われているようだった。腰にはやはり赤い細紐があった。」
 この一節を引用しておきたかったのは、「二つの遺体は、擁するように密着していた」とか、「抱かれるようによりそわれている屍体」といった、要するに抱きあっていたということを暗示する一節があるからです。しかし、僕には都合の悪い一節もある。それは、「その腰のところに、たしかに赤い腰紐がみえ、切断された部分が脇の下にだらりと下っていた。」というように、二人の死体を引き剥がすことなく、紐だけが切られていたかの記述が含まれていることです。では、いつ二人の遺体は引き剥がされたのか。どちらにしろ、引き剥がされざるをえない。タイムリミットはある。それは、太宰側の霊柩車と寝棺が到着して、お棺に遺体をおさめ、土手の上に引き揚げるときです。で、その作業は、当然、人夫の人たちがしたと思われます。野原さんも書いていましたよね。
 「霊柩車と寝棺が到着したのは九時半に近かった。その頃、わずかな時間だが、雨がやんだ。寝棺を下におろし、そのなかに遺体をおさめ、丸太を組んだレイルを土堤の斜面に匍わせて綱で寝棺を引き揚げる、その作業がはじまった。邪魔になるので私たちは土堤の上にのぼった。」




作者紹介

吉田和明

文芸評論家。三島由紀夫、吉本隆明などの近現代文学を中心に著書多数。特に『あしたのジョー論』など、精力的な新ジャンルの開拓は各界から評価が高い。

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