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それは、偶然だった。東京ドームの脇に立つ碑を見つけたのは……。「あれが、話に聞く鎮魂の碑か」。僕はその碑に近づいていった。すると、選手の名前が刻んである石の中に違う部分がある。なにか不自然だ。その部分は、刻まれていた人の名前を消してあるようだ。なぜだろう。なぜ、一度刻んだ名前を変えるのだろうか。ある日、僕はその疑問をはらそうと、野球体育博物館(以下野球博物館)へ行った。
野球博物館は、昭和三十四年、後楽園に建てられた。昭和六十三年に後楽園にドームができると、現在の二十一番ゲートの横に移った。入場料四百円を払えば、日本野球の歴史や資料に触れることができる。僕は、「鎮魂の碑」について調べるため、資料室を探した。
所蔵されていた昭和五十二年四月二日の読売新聞夕刊に鎮魂の碑の記事があった。その記事によると、石碑の石は、当時ベースボールマガジン社社長池田恒雄氏の母校の先輩、新潟県会議員の角屋久次氏が寄付したものだという。この石は、平家の落ち武者が、隠れ住んだといわれる秋山郷(新潟県中魚沼郡津南町)で採石された。見玉石に戦死した選手の名前を刻むための黒ミカゲ石はめこんだもので、縦・横各八尺(約二メートル四十三センチ)、副碑は縦八尺、横六尺(約一メートル八十二センチ)、台座を加えると高さ三メートル近くで、重さは二つで二十トン弱。一年に一個出るかでないかの「大物」。それを角屋氏が、職人の手間賃と東京までの輸送費だけで提供したのだという。その主碑に、下田武三コミッショナー(当時)の筆による「鎮魂の碑」の文字が刻まれた。そして、戦没選手六十八人の名を刻んで、昭和五十六年四月に除幕した。記事の概要は、だいたいそんなところだ。
未だ晴れないナゾ
碑が建ってから二十年以上が過ぎている。現在の碑は、刻まれた選手の内、五人の人の名前が入れ替わっている。なぜそのようなことが起きたのか。その疑問を野球博物館の職員にぶつけてみた。彼は次のように答えた。
「資料作成時、資料の混乱や情報不足のために、生存確認ができず、碑を作った後に確認がとれたり、日本に帰ってきた後に病死した人たちが外された。ただ、戦地で病死した方をどうするか、私たちもまだ決めかねている」
僕は、碑に名を刻む選手を選んだ際の資料が残っていないか尋ねた。博物館の職員は言った。
「資料は、昭和五十三年の『ベースボールマガジン』がベースになっています」
ここで見てもらいたいのが、(資料一)である。この資料は、昭和五十三年九月号の『ベースボールマガジン』に掲載された資料である。僕は次のような疑問を持った。
たとえば、この資料が戦後すぐに作成されているのだとしたら、資料の混乱や情報不足も分かる。が、戦後三十三年も過ぎているのに、資料の混乱や情報不足がありえるのか。また、現在の碑に刻まれた選手名と『ベースボールマガジン』を比べると、四人の名前がけずられていることがわかる。そして、五人の名前が加えられている。(資料二、三)
僕はとりあえず、外された四人の名前、岩出清、江口行男、玉井栄、渡辺一夫をメモして、野球博物館を後にした。
次の日。昨日メモを取った人物をインターネットで検索してみた。結果、岩出清氏生存、江口行男氏戦後病死、渡辺一夫氏生存、ただ玉井栄氏だけは、外された理由が分からなかった。
後日、玉井栄について、興味深い情報を得ることができた。
「げんまつWEB タイガース歴史研究室〜猛虎歴研〜」(http://www.jttk.zaq.ne.jp/genmatsu/index.html)は、ハンドルネーム、ゲンマツ氏が開いているページである。そのページ上に「阪神の玉井栄選手は、戦死されたのに鎮魂の碑に刻まれていない」とあった。
玉井栄と小倉工業
玉井栄。彼は、福岡の小倉工業で甲子園に出場している。今でこそ、甲子園から遠ざかっているが、戦前の小倉工業は、甲子園の常連校であった(戦前だけで十二回の出場)。
小倉工業野球部は、大正九年に誕生した。しかし、大正の末までは、戦えば必ず負けるといった具合の弱小野球部だった。そんな野球部を強豪校に育てたのが、大正十一年二月に着任した井上幾次郎教諭である。井上監督に鍛えられた野球部は、部創立十年目の昭和五年夏に甲子園の土を踏み、その後昭和十二年までの間、ほとんど毎年、春、夏出場という記録を残した。
井上監督には、このようなエピソードがある。文化誌『九州人』の中で、スポーツ評論家、黒田登志晴氏は書いている。
井上監督は独特なノックをした。普通のノッカーは自分で球を軽くあげ、それを打つが、井上監督は捕手からの球を直接野手に向かって打っていた。そのためノックがスピーディで、人が七分かかるシートノックを、井上監督は五分で終わらせることができた。
井上監督のノックは、新聞にとりあげられ、甲子園の名物にもなったという。
小倉工業野球部にも、優勝旗と優勝杯にまつわるエピソードがある。まずは「優勝旗」。
昭和五年八月一日、春日原球場で行われた全国中等野球北九州大会決勝で、当時不敗の戦力を持つ修猷館と熱戦を演じた小倉工業は、二対〇で修猷館に勝ち甲子園初出場を決めた。しかし、治まりがつかないのが、強豪修猷館びいきの観客。審判が悪かったの、優勝旗は渡せないと騒ぎ、グランド内になだれこんだ。そのため、優勝旗を持たず小倉に帰ったという。その後、優勝旗は、先輩成重光真氏が主催者からそっと受け取り、腹に巻いて小倉に帰り、野球部の手に渡ったという。
次に「優勝カップ」。
昭和五十三年、大分県日田市の古美術店から、「優勝・全国中等学校野球大会北九州予選大会」と刻まれた古ぼけた銀製カップが見つかった。古美術店の好意により、元の持ち主探しが始まった。当時の審判員や、カップ裏面に刻まれていた寄贈主の店の元従業員らの話から、第十六回大会に優勝した小倉工業に授与したものとわかった。戦後のどさくさで、学校の貴重品や記念品が散逸してしまったようだ。
四十九年前に手にした優勝カップは、長い流浪の末、「優勝昭和五年七月・小倉工業学校」と書かれた紅白のリボンが結ばれて、五十四年七月十日、戦前の黄金時代のOBの手により、古巣の小倉工業に帰ってきた。
玉井栄は、井上監督の門下生である。そして、三年生になった昭和九年、玉井はエースとして、小倉工業を春夏出場に導いた。春の選抜では準々決勝まで進み、海南中学に敗れはしたが、延長十三回の接戦を演じた。夏の大会出場を決めた小倉工業を、当時の朝日新聞は、こう評している。「攻撃は常に長打が多く、守備も投手、玉井を中心に失策が少なく、洗練されている」(朝日新聞、昭和九年八月十日)。
その後、二年間で三期、甲子園に出場している(戦前の中学校は五年制)。しかし、在学中には、肩を痛め投手を断念するというハプニングにもみまわれている。その後は、外野手に転向し、活躍した。
当時の玉井栄の活躍ぶりを『福岡県立小倉工業高等学校百年史』の中に見ることができる。
当時、選抜大会には、いくつかの個人賞があった。これは大正十四年の第二回大会に創設されたもので、優良賞、選抜賞、ファインプレー賞(第三回大会で、美技賞と改称)、本塁打賞、打撃賞、生還打賞(打点)の六賞である。第三回大会では、これに塁打賞が加えられた。この賞を福岡県選手で最初に手にしたのが、昭和十一年に出場した玉井栄選手である。玉井は、外野手としての優秀選手賞をうけただけでなく、本塁打賞、美技賞、打撃賞(打率五割)、塁打賞と五つの賞をひとり占めし、とれなかった賞は生還打賞ただひとつだけだった。むろん、個人賞を五個も独占したのは、前代未聞のことだった。
そして、その時の活躍が認められ、東京巨人と大阪タイガース両球団から声がかかった。玉井栄は結果、大阪タイガースを選択し、昭和十二年に入団した。
しかし、当時の大阪タイガースは、その豪打でファンを魅了した影浦将が、外野でプレーし始めた時期であった。また名古屋軍の小鶴誠と同じ愛称「和製ディマジオ」と呼ばれ、昭和十二年、春のシーズンで、盗塁王・得点王を獲得した山口正信もいた。さらに、日本プロ野球初めての本塁打(昭和十一年五月四日のセネタース戦。五回裏に野口明投手から打った、ランニングホームラン)を記録し、後にコーチとして田淵幸一を育てた藤井勇後(後、藤井秀郎と改名)。走好守そろった中距離ヒッターの塚本博睦ら、そうそうたる顔ぶれがそろっていた。そのため、玉井栄が活躍する場は少なかった。
戦時下のプロ野球
日本の職業野球は、日本が戦争へとのめりこんで行く時代に産声をあげた。職業野球が、本格的に運営され始めたのは、昭和十一年。日本が盧溝橋事件から、泥沼の日中戦争へと突入する前年である。
昭和十三年には、国家総動員法が公布され、日本中が戦時下体制に入っていく。そんな時代背景の中でさえ、職業野球は興行を行っている。日本職業野球は、本土爆撃が本格的になる昭和十九年でさえ、爆撃の合間を縫って、三十五試合の興行を行っているのだ。中等学校野球大会、いわゆる甲子園が、太平洋戦争へと戦火が拡大される昭和十六年に中止になり、当時最も人気のあった大学野球でさえ、学徒出陣のあった昭和十八年四月を最後に中止されている。
さて、こうした戦時下において、各球団共通の問題を抱えていた。それは、選手不足である。
ここに、一つの例がある。昭和十七年名古屋軍のメンバーは、監督、内外野手を含め二十人。投手は五人の総勢二十五名。もちろん二軍は存在しない。それが、翌十八年には、召集令状により、監督兼内外野手、投手を含め総勢、十七人にまで減った。そのため、今日は投手、明日は外野手という、掛け持ち選手が増えた。こうした事情は各球団においても同様であった。
軍事色に包まれた球場
この節では、牛島秀彦氏の『消えた春』などを参考して、当時の職業野球をめぐる状況を見ておこう。
日本野球連盟は、昭和十五年、「新綱領」を発表している。その中には、次のような文言があった。
一、 華美な服装の廃止。
二、 制服の文字、球団の名称を日本語化する。
三、 審判の判定は日本語化する。プレーボールを「試合始め」、タイムを「停止」、ゲームセットを「試合終り」とする。
この「新綱領」により、秋からタイガースは「阪神軍」、セネタースは「翼」、イーグルスは「黒鷲」と改め、「ライオンは日本語」とがんばっていたライオン軍も、翌年三月に「朝日軍」と改称した。
さらに、昭和十八年になると、ユニフォームは軍服化され、帽子は戦闘帽。試合中はあごひもをかけ、直立不動。背番号もなんとなく「敵性」のにおいがするという理由から、中止になった。後楽園球場の二階には、高射砲がすえられ、見物人は二階観覧席から締め出された。また、試合における隠し玉は、日本精神に反するという理由から厳禁され、野球用語の日本語化が徹底された。たとえば打者に対する号令は、こうだ。
ストライクは「ヨシ! 一本、二本、三本」。ボールは「一つ、二つ、三つ、四つ」。三振は「それまで!」。ヒットは「よし!」。ファールは「だめ! または、もとえ!」。
走者に対する号令は、セーフが「よし!」。アウトは「ひけ!」。ボークは「反則」。ホーム・インは「生還」、後に「得点」に変更となった。
スコア・ボードにも変化が見られた。ストライクが「振」。ボールが「球」。アウトが「無為」。「ツー・ストライク、スリーボール」は「二振三球」となった。
また、規則用語も改正があった。ストライクは「正球」。ボールは「悪球」。セーフは「安全」。アウトは「無為」。バント・ヒットは「軽打」。スクイズは「走軽打」。スチールは「奪塁」。チームは「球団」。ホーム・チームは「迎戦組」。ビジティング・チームは「往戦組」。フェア・グランドは「正打区域」。ファール・グランドは「圏外区域」。ファール・ラインは「境界線」。(『プロ野球読本』野口務より)
当時の職業野球試合は、試合の始まりと終りに両軍選手が、ベンチ前に整列した。主審が右手を上げるのを合図に、駆け足姿勢で行動を起こし、本塁定位置に整列し敬礼。挨拶後は、まわれ右をして、ベンチに二列横隊駆け足で揃って戻った。この行動は、今でも高校野球で見ることができる。
入場式などの場合は、両軍が本塁上で挨拶をし、選手は、右または左へならえをして、監督または主将の「脱帽」の号令とともに一斉に脱帽して「宮城遥拝」をする。その際、戦歿戦士への黙とうなどが行われた。
球場内での挨拶も、いっさい軍隊式敬礼となった。肩の線を水平にして、人差し指と中指を帽子のヒサシのつけねにあてる。試合中、監督や選手が審判員に敬礼を行う場合は、授令答礼の意味で、監督選手は審判員より後に手を下げた。また、試合前に観衆の戦意昂揚のため「米英撃滅!」という文字を一字ずつ紙に書いた樽を二塁付近に並べ、それにボールを投げて破るといったことや、匍匐前進などの競技も行われた。
日本プロ野球始まる
日本職業野球初の公式戦は、昭和十一年四月二十九日、甲子園で行われた「第一回日本職業野球リーグ戦」が始まりである。渡米中の巨人を除く六球団(資料四)による総当り戦が行われた。五月五日まで七日間で各球団が五試合ずつ。この七日間は、初日三試合。あと六日間は、一日二試合。こうして一球場で複数試合を行うことは、一リーグ時代の常識となった。
一方、東京巨人が帰国すると、七月一日から五日間、第一回のトーナメント大会が七球団で開かれた(連盟結成記念全日本選手権東京大会)。
七球団全部が顔をそろえた七月一日を「プロ野球スタートの日」とされている。
この大会は、早大の戸塚球場(後の安部球場)を借りて行われた。準決勝は満員となり、臨時の観客席をもうけるほどだったが、決勝戦は平日だったせいか、前日の半分以下の四千八十五人の観客しか入らなかった。しかし、狭い球場であった戸塚球場で、五日間で三万三千人以上の有料延人員を集客したことは、当時の職業野球の背景を考えても成功だったと、当時の記者、市岡忠男氏は、昭和十一年七月九日の読売新聞に書いている。
日本職業野球初のペナントレースは、昭和十一年の秋から始まる。
九月十八日から、甲子園、宝塚、鳴海、上井草、州崎の五球場を使用して行われた第二回全日本野球選手権試合が、初のペナントレースとなる。これは、四つのリーグ戦(一回戦総当り)と二つのトーナメント大会を組み合わせた、変則的なペナントレースだった。
それぞれのリ―グ戦、トーナメント大会の優勝チームに一点を与え、同率首位の場合は両チームに〇・五点。その最高点獲得チームを優勝とする方式だった。
四つのリーグ戦とは、九月十八日から二十七日まで、甲子園で行われた第一次甲子園リーグ戦。優勝チームは巨人軍。
十一月三日から十二日まで、上井草で行われた第一次東京リーグ戦。優勝チームは、大阪タイガースと名古屋軍。
十一月十四日から二十三日まで、甲子園で行われた第二次甲子園リーグ戦。優勝チームは、巨人軍と大阪タイガース。
十一月二十九日から十二月五日まで、上井草で行われた第二次東京リーグ戦。優勝チームは、大阪タイガースと阪急軍。
そして、十月四日から三日間、鳴海で、また、十月二十三日から三日間、宝塚で行われた二つのトーナメント大会。鳴海では、大阪タイガースが、宝塚では、巨人軍が優勝した。これが日本初のペナントレースである。
東京に専属球場ができたのは、昭和十一年十一月三日の上井草、同年二十九日の洲崎である。上井草は、東京セネータースの専用球場で、西武鉄道がバックアップして八月に完成した。十一月三日から第一次東京リーグに使用された。この日は祝日で、午前十時三十分から三試合が行われた。高田馬場から、往復二十銭の割引運賃の電車が走り、二万人を超す大観衆が集まった。
洲崎は、大東京の専用球場として、オープンした。球場の後ろは海。外野のスタンドは土盛という素朴な球場だったという。十二月九日からは、勝ち点の並んだ、巨人と大阪タイガースの間で、優勝を賭けての三連戦が行われた。しかし、三日間の有料入場者は、わずか七千三百三十九人。職業野球は、まだ人々に認知されていなかった。
球場を後にする選手たち
昭和十二年から公式戦は、二シーズン制で行われた。春五十六試合、秋四十九試合、翌昭和十三年は春三十五試合、秋四十試合。二シーズン制をとったのは、当時人気の大学野球の春秋シーズン制に馴れたファンを考慮してのことだ。
昭和十二年、日本は中国大陸で盧溝橋事件を起こし、日中戦争へと突き進んだ。この影響が、職業野球選手にも及んだことは言うまでもない。稀代の投手、沢村栄治や、沢村のライバル影浦将など名選手も、出征することになった。玉井栄もその中にいた。
玉井栄のプロでの生活は、昭和十二年春から昭和十三年秋までの二年間。五十一試合に出場し、五十一打数十安打〇本塁打、打点二、盗塁四、打率一割九分六厘の成績を残した。そして、昭和十三年末軍隊に入隊した。
僕は、玉井栄の足どりを追ってみようと思った。初めに玉井栄が所属していた、大阪タイガース、後の阪神タイガースの球団事務所に電話をしてみた。担当者は答えてくれた。
「OB会の名簿では戦死になっていますね。連絡先は、こちらでも分からないです」
球団で聞けば、連絡先も分かるのではという、僕の安易な考えは崩れた。しかし、戦死説も有力であるという考えも強くなった。むろん、戦死したのだから、「鎮魂の碑」から名前をはずされるのはおかしいのだが・・・・・・。
立ち塞がる「個人情報保護法」
僕は、戦死の真為を確かめなくてはならないと思った。そして、防衛研究所図書館資料閲覧室(以下資料室)を訪ねた。
中目黒の閑静な住宅街にある資料室は、防衛庁管轄。この資料室は、旧日本陸海軍の関係資料十一万六千点を所蔵する、軍事関係では日本最大の資料室である。入室するのに身分証明を提示させられるところなどは、さすが防衛庁管轄だ、などと思いながら資料室に入った。そして、玉井栄の名前、入隊した年、出征地など、僕の知っている情報を提示し、調べてもらおうと思った。すると、意外な言葉が帰ってきた。
「この情報だけじゃね。軍隊といっても、陸軍に海軍があるからね。せめて、階級か所属部隊でも分かればね。けど今は、個人情報保護法があるから、親族の方じゃないと教えられないです。けど、せめて階級でも分かればね」
職員の人は、申し訳なさそうに言ってくれた。こんな僕と職員の会話を聞いていたおじさんが声をかけてきた。
「その人の母校は分かるかい。分かるなら学校に聞くのが早いよ。歴史がある学校なら、名簿を持っているから」と、親切に教えてくれた。
僕は、この親切なおじさんと職員に礼を言って、資料室をあとにした。ここでならと思っていたのに、手がかりも得られず、おまけに保護法という問題まで立ち塞がった。簡単に見つけられるのではと思っていたが、人一人を見つけるのが難しいということを、改めて考えさせられた。
次の日。戦死の線が捨てられない僕は、靖国神社へ行った。戦死したのなら英霊として、靖国神社に祀られているのではないか、と思ったからである。
靖国神社には、近代日本が誕生した明治初期から今日まで、天皇のために命を落とした人が祀られている。明治二年六月、明治天皇によって、東京・九段に建立された。戦時中では「靖国で会おう」を合言葉に、多くの兵隊さんが命を落とした。
靖国神社の大鳥井をくぐって、本殿までの長い道を歩きながら、「ここでなら」という思いが、強く沸いてきた。本殿に着いて遊就館という所に行った。ここは、明治十五年に設立された日本初の博物館である。受付の人に話をすると、「それなら、参集所に行ってみたらどうですかね」と言われた。
参集所。ここは、靖国神社に祀られている英霊の情報を管理している所である。僕は巫女さんに事情を話した。巫女さんは、身内ではないと分かると怪訝な顔を見せつつも、調べに行ってくれた。
時間がかかっている。待っている間、僕は考えていた。やっぱり、玉井栄は戦死していなかったのではと。そうなれば、僕のやってきたことは無駄骨になるが、話がまとまる。しかし、諦めの悪いもう一人の僕が、白黒はっきりさせたい、とも考えていた。そんな時、巫女さんが戻ってきた。
「おまたせしました。調べた結果、二人の玉井栄さんが祀られています。ただ、出征地は二人とも四国ですね」
僕は、あれっ、と思った。そして、その二人の、出征前の職業を教えてもらおうとした。が、思いはかなわなかった。
「そこまで教えることはできません。ただ、栄という名前は、当時流行していたみたいですね。名前だけだと、けっこう出ましたから。後は国会図書館にでも行けば、分かるかも知れませんね。私だったらそうしますね」
ここでも個人情報保護法が立ち塞がった。しかし、出征地が僕の探している玉井栄とは異なるが、確かに靖国神社に祀られていることと、当時「栄」という名前が流行していたという二つの有力な情報を手にできた。
見えない後ろ姿
ここで、一つの仮説が頭に浮かんだ。当時の人々は、本籍地のある場所で徴兵検査を受け、出征する。そして、本籍地にある部隊に入営する。僕の探している玉井栄は、福岡出身だが、当時、炭田で栄えた北九州に、玉井栄の家族が本籍はそのままにして引っ越したのだとしたら……。そうであれば、出征地は福岡でなくなる。そうなると、靖国神社に祀られていた四国出身の玉井栄が、本人の可能性もでてくる。
それから僕は、資料室で会ったおじさんの言葉を思い出し、玉井栄の母校、小倉工業高校に電話をした。呼び出し音と同時に事務の人らしき女性の声がした。僕は、今調べていることの主旨を説明し、少しの情報でもほしいことを言った。が、聞き慣れたフレーズが、僕の耳に入ってきた。
「御身内の方ですか。違うのでしたら、個人の情報は教えられません」
またしても個人情報保護法が僕の前に立ち塞がった。個人情報保護法が、こんなにも大きく、僕の前に立ち塞がるとは思いもしなかった。
次に僕が考えた手は、国会図書館であった。以前、靖国神社で質問に答えてくれた巫女さんが、困っている僕を見て言った「こうなったら、国会図書館ですね。あそこなら日本に流通している本がほとんどありますし。何か見つかるかもしれませんよ」という言葉が心に残っていたからである。
国立国会図書館。それは、日本の政治の中心、国会議事堂の横にそびえ立つ、六階立ての建物である。十八歳以上でなければ入館できないという図書館にあるまじき図書館には、日本に流通している本は全て、所蔵されているというまさに、図書館の中の図書館である。
僕は「戦前、阪神タイガースに所属していた、玉井栄について調べたいのですが」と言うと、困ったような顔をしながらも学芸員の人は、調べてくれた。しかし、僕の質問があまりに漠然としたものだったのか、たらい回しにされ、得ることもなく、国会図書館をあとにすることになった。
帰りながら、「やっぱり野球博物館の病死説は正しいのでは。戦死だとしても、沢村栄治などのように目立った記録もなく、プレーをしたのもプロ野球創世記の二年。それも戦争という大事件を挟んだ人間の生死を調べることは、僕には不可能なのではないのか」と、ふたたび気持ちが沈んだ。そんな時、一通のメールが届いた。
真実はどこに
メールの差し出し人は、以前見つけたホームページの製作者・ハンドルネーム、ゲンマツさんからであった。僕は、このホームページ製作者宛に、「なぜ、玉井栄が戦死と言えるのか教えて下さい」とメールを送っていた。その答が返ってきたのである。僕は、今回の事で初めて、情報化社会の恩恵を受けた。メールには、次のように書かれていた。
「この件は、鈴木明著書の『昭和二十年十一月二十三日のプレーボール』(光人社刊)に、昭和二十年、場所は明らかではないが、戦死した、と記述されています。私は、鈴木氏の取材力を評価しているため、取り上げた」
僕は、嬉しかった。少なくとも、世の中に出回っている本の中に「戦死」と書かれている本が、あることが分かったからだ。
次の日。僕は近くの図書館へ行き、教えてもらった本『昭和二十年十一月二十三日のプレーボール』を借りた。
この本は、戦後プロ野球復興に努めた人物や、戦争によってプロ野球から離れざる得なくなった選手たちを中心に書かれている。この本の二百八十四ページに、三行足らずの短い文だが確かに「大正七年、福岡県生まれ。小倉工校からタイガースに入団したが、実働二年間、五十一試合出場のあと召集令状が来た。昭和二十年、戦死したが、その場所は明らかではない」と書かれていた。
僕は、靖国神社で見つけた四国出身の玉井栄が、僕の探している玉井栄だと思うことにした。そのため、四国にどのような部隊があり、どのような作戦に参加をしたかを調べることにより、玉井栄を捕らえようと思った。僕はふたたび資料室へ行った。
資料室に入り職員の人に尋ねた。 「前にも似たようなこと聞かれたけど、君だったけ……。君が探している年代に四国にあったのは、第四十師団だね。第四十師団は、名古屋の第三師団、九州の第六師団と共に、第二次長沙作戦に参加しているね。小倉には第十二師団があって、この師団は、この作戦には参加していないね。ただ、この間も言ったように階級がわからないと、個人を探すことは難しいよ。それに一つの作戦をとっても、師団だけでなく旅団などの参加もあるからね」
職員の人は僕を覚えていてくれたためか、親身になり調べてくれた。このように言われたが、不思議と僕は、以前のように落ちこまず、逆に嬉しくなった。それには僕なりの理由があった。
それは、資料室に行く前、ハンドルネーム、ゲンマツさんのホームページ上に、「対戦中、中国第二次長沙作戦中に本堂保弥と再会する」と書かれていたのを見つけていたからだ。本堂保弥は、玉井栄と大阪タイガースに同期入団した人である。このことを知っていたので、僕は少なくとも「玉井栄は中国にいた」と考えていたからだ。玉井栄自身も、第二次長沙作戦に参加していたのではないか。
第二次長沙作戦。別名さ号作戦は、昭和十六年十二月下旬から、翌昭和十七年一月下旬にかけて実行された。香港作戦に呼応した作戦だ。第一次長沙作戦で、占領した長沙を中国軍に奪われたので、再び占領しようとして、遂行された作戦である。阿南惟幾第十一軍司令官は、独断で長沙一角に兵を進めるが、中国軍の反撃にあい、昭和十七年一月十五日撤退した一連の作戦である。この作戦での犠牲者は、太平洋戦争初頭の作戦では、フィリピン作戦に次ぐ多さだった。(『兵隊たちの戦場』より。www1.quolia.com/)
太平洋戦争初頭の激戦、フィリピン作戦に次ぐ犠牲者を出した第二次長沙作戦に、第四十師団の一兵として参加した玉井栄は命を落とした、と僕は考えた。
玉井栄は本籍を四国に残し、家族で九州に引越し、小倉工業から大阪タイガースに入団し、第四十師団と共に戦地に赴き、短い命に幕をおろした。そういう考えが僕の中で固まりつつあった。しかし、僕の気持ちはなぜか晴れなかった。それは、全てが僕の仮説であり、有力な証拠をつきとめていなかったからだ。そんな気持ちの中、僕の仮説を三百六十度ひっくり返す事実に僕はぶつかった。
つきとめた真実
ある時、僕の中に小さな疑問が浮かんだ。そもそも、野球博物館では、いつ玉井栄が病死をしたという情報を知ったのか。僕はこの疑問を晴らすために、三たび野球博物館へと足を運んだ。野球博物館でも、資料室同様、僕のことを覚えてくれていたらしく、快く質問に答えてくれた。
「こちらが、玉井栄さんの情報を得たのは、野球博物館が今の場所に移転する前、昭和六十三年以前に玉井栄さんと関係のある人からです。ただ詳しいことは、もう担当者が変わってしまって、分からないのが現状です。けど、大阪に息子さんがいて、連絡先も博物館では分かるのですが、連絡先を教えるのは、相手の方の都合もあるので、悪いですが教えられません」
この博物館側の答えに、僕は困惑した。なぜなら、この答えは、僕の仮説を根底から覆すものだったからだ。しかし、なぜか僕の気持ちは晴れ始めていた。仮説をひっくり返されたことより、見えにくかった玉井栄の背中が今、はっきりと見え始めたからだ。ただ、博物館の答えでは、まだ信憑性が弱いことが頭に残った。
それから僕は、玉井栄に近い関係の人を探すことに、力を注いだ。そして、ついに玉井栄に近い人達を見つけることができた。それは、小倉工業高校の卒業生会である。
北辰会。小倉工業の卒業生会である。ここ以上に玉井栄に関係深い所はないし、ここでだめだったら、僕はもう打つ手がなかった。ここでも「個人情報保護法」により教えてもらえないのではという不安を持ちつつ、電話をした。しかし、そんな不安はすぐ消えた。
僕は今までのことを話し、玉井栄の戦後について聞いた。応対してくれた北辰会副会長兼事務局長・長坂田智之(さとし)氏は、親切に答えてくれた。
「玉井栄さん。確かにうちの卒業生です。ただ、こちらでも詳しくは分かりません。野球部のOB会に連絡を取ってみますので、少し待ってください」
親切にも、僕のために、野球部のOB会に連絡をとってくれた。
待っている間、僕は思った。野球部のOB会といえば、玉井栄に一番近い。しかし、玉井栄と同期となれば、八十五歳。戦争も挟んでいる世代。玉井栄を知っている人はいるのだろうか……と。
一時間後、再び僕は北辰会の坂田智之氏に電話を入れた。
「野球部OBの話だと、玉井栄は帰還した。戦争中、どこに行き、いつ帰ってきたかは分からないけど、確かに帰還した。その後、九州電力に入社した。けど、昭和二十八年の九州大水害の時、変電所の復旧作業中に感電死した。息子もいて、父親と同じように小倉工業に入学して、甲子園に出場しているよ」
「玉井栄さんの本籍は、四国だったのでは」
「いや違うよ。生まれも育ちも九州だよ」
僕の仮説は、全て崩され、真実がわかった。真実は、こうだ。
大正七年五月二十六日、九州に生まれた玉井栄は、野球の名門小倉工業に進学した。昭和九年エースとして、春夏連続で甲子園に出場した。その後も三度、甲子園の土を踏んだ。しかし、肩を痛め投手を断念し外野手に転向。転向後もチームの主力となり、甲子園で大暴れした。
その甲子園での活躍が目に止まり、昭和十二年、大坂に入団した。しかし、当時の大阪の選手層と、戦争という背景が、活躍の場を与えなかった。そして、わずか二年で戦地に赴いた。
激戦のビルマ戦線で、左足を負傷し帰還。その後、玉井栄は、九州電力小倉支店変電課に入社した。入社後は、同支の軟式チームの監督をするかたわら、高校野球の審判もつとめていたが、昭和二十八年の九州大水害(西日本大水害)の際、感電死をした。享年三十五歳だった。
その前日に、母校小倉工業の監督就任が決まったばかりだった。その矢先の事故だった。
玉井栄の名前は、小倉工業に語り継がれている。昭和二十九年、同校を卒業した野球部OBで、現在、株式会社アダストサービスの代表を務めている、長野正景氏は電話で話してくれた。
「玉井さんは、ヒーローだった。そんな玉井さんに野球を教えてもらったことは、今でも忘れず覚えている」
今回、ふっとした偶然がきっかけで、名前も知らなかった「玉井栄」という、元職業野球選手を知った。僕は彼を、自分ができる手段の全てをつくして調べた。そして、玉井栄を通して、戦争によって球場を後にし、再び球場に戻ることのなかった野球選手たちのいることを知った。その数、職業野球選手が六十九名。大学野球や高校野球まで含めれば、その数は何倍にもなる。そういった歴史の真実を、玉井栄は僕に見せてくれた。
華やかなプロ野球の影には、暗い過去があったことを、僕達は忘れてはならない。
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