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平成14年11月6日――。神奈川県保土ヶ谷球場では、秋季高校野球・関東大会の決勝が行われていた。1回の表のマウンドには、夏の甲子園を沸かしたひとりの投手が立っている。
彼の名前は須永英輝、埼玉県・私立浦和学院高校の2年生。1年の時から強豪校のエースナンバーを背負ってきた全国屈指の左腕である。
彼の持ち味は140kmを越えるストレートと縦に大きく割れるカーブ、そして制球力の良さである。これらを武器に、1年生の終わりの春に選抜大会で全国デビューを果たした。名実とも、その肩にかかった期待は大きい。だが、そんな須永を待ちうけていたのは、全国トップレベルのチームの大きな壁だった。
秘密兵器
同年の春、須永を擁する浦和学院は準々決勝で兵庫県代表の報徳学園と対戦。須永は終盤に報徳学園の強力打線にいとも簡単に捕まり、4対6で逆転負けを喫してしまった。終盤、単調になった須永のピッチングを報徳打線は見逃さなかった。
「自分自身のふがいなさを痛感した」と須永は当時のことを振り返った。結局浦和学院を破った報徳学園は見事春の選抜で優勝を飾ることとなる。その日以来、須永の「打倒・報徳」への道は始まった。
須永が「打倒・報徳」のため自らに課した改革は大きく分けてふたつあった。ひとつは肉体改造である。それまでの課題であったスタミナ不足と筋力不足を克服するために、走り込みと筋力トレーニングを徹底的にこなした。
そして須永が取り組んだもうひとつの改革、それはスクリューボールの習得であった。
スクリューボールというのを聞きなれない人も多いだろう。カーブボールとまったく正反対の球種で、右打者の内角寄りではなく、反対方向に回転し、外角寄りにわれる。反対に左打者に対しては内角低めに食い込んでくるボールである。
スクリューボールは、右の下手投げの投手が投げるシンカーと同じような変化をするが、左投手の場合、シンカーよりも左右に揺れながら落ちる。「魔球」とも称されるこの変化球は、アメリカ大リーグで生まれた左投手独特のボールとされている。
須永は左投手という利点を生かして魔球の獲得に取り組んでいったのである。須永にスクリューボールを勧めた浦和学院の森士監督は、当時のことをこう語った。
「須永は手首が非常に柔らかいんです。だからスクリューボールを投げさせたら、面白いボールになるんじゃないかなと思って勧めました。それまで須永はカーブで三振を取るピッチング主体でしたから、何か、引っ掛けてゴロを打たせるボールが必要だったんです。せっかく左投手なのですから左特有のボール覚えたらいいんじゃないかと思いました」
須永は手首の使い方がうまい。それはスクリューボールの効果に影響があるとにらんだのである。スクリューボールは、ボールの縫い目に指を合わせて手首を外側にひねるような感じで投げるのが一般的だ。須永の手首の柔らかさはそれに適しているとの考えからスクリューボールを勧めたのであった。
しかし、投手が新たな球種を修得するということは決して容易ではない。プロ野球選手でさえ、最低半年必要と言われている。ましてや須永は高校生。例え高校野球界では全国屈指の左腕と言われていようとも、簡単に修得できるものではない。それでも須永は「打倒・報徳」のため、いや自分自身の成長のために敢えて苦難の道を選択したのである。
苦難の道
魔球修得への道は予想通り、厳しいものであった。何度繰り返しても思ったように決まらない。だが諦めたくなかった。須永はそんな苦しい日々を選んだのだ。だが皮肉にも、魔球修得のための投げ込みによって左肩の痛め、須永は春季県大会を欠場――。
夏の甲子園大会の県予選を3ヵ月あまりに控えての出来事に森士監督は悩んでいた。
「肩のほうは大事に至らなかったので心配はしていませんでした。でもスクリューボールにこだわるあまり自分のピッチングをもっと崩してしまうことが怖かったです。とりあえず大会に専念させるために辞めさせようかとも思いました」
しかし須永自身はその時点での自分自身に焦りを感じていなかった。
「毎日が楽しくてしょうがなかったですよ。このボールをマスターして試合で使えるようになったらどんな組み立てで試合をしようかなんて毎日寝る前に考えていました。だから苦しいと思ったことはないですね。監督にもう1年あるから夏が終わってから練習すればいいんじゃないかとも言われたんですけど……。でもそれだったら春と自分はあまり変わっていないんじゃないかって感じました。それでは夏に勝てない。やるなら今やるしかないって思ったんです」
他から見ればさほど進展が見られない苦しい練習だったのかもしれない。しかし須永は決してそうは感じていなかった。更なる進化を遂げた自分の理想のピッチングだけを追い求めて、投げ続けたのである。
完成!?
大会1ヵ月前の6月のある練習試合、その試合は須永にとってはただの練習試合ではなかった。シーズンに入って初めての登板に、マウンドの感触を確かめる須永。それと同時に、彼はひとつの恐るべき挑戦をしていた。
それは今まで須永がウイニングボールとして使っていたカーブの封印であった。須永はその試合の5イニングスを投げ全68球、内ストレート42球、スクリューボール20球、チェンジアップ8球という内訳で試合を組み立て、2安打無失点の好投を見せたのである。
しかもそれまでの三振を取るピッチングではなく、スクリューボールで内野ゴロを打たせて捕るピッチングでの好投であった。この試合で須永と森士監督は夏の大会に向け、スクリューボールは使えるという確かな手応えをつかんだのであった。
万全の態勢で臨んだ夏の甲子園・埼玉県予選大会で、須永は脅威のピッチングを披露した。なんと埼玉県予選全7試合で投球回数46イニングスを1失点、防御率0.19と文句なしの内容で浦和学院甲子園出場の立役者となったのである。
須永は魔球・スクリューボールを体得したことで進化を遂げた。しかし何故、ここまでスクリューボールは絶大な効果を上げたのか。それもわずか4ヵ月足らずで……。そこには須永にしかできないスクリューボールの秘密があった。
誕生・須永式
前にも挙げたようにスクリューボールは投げる瞬間にカーブとは逆に、つまり手首を外側にひねるように投げる。そしてそのボールは左右に少し揺れながら右打者の外角低めに逃げ、左打者の膝もとに食い込むように落ちる。そして打者はつい手が出て引っ掛けてしまうというのが特徴である。しかし須永の場合は、更なる上を行く「スクリューボールの進化版」があったのだ。
須永は当初、一般的なスクリューボールを投げていた。だがそれは、手首を柔らかく使いこなせる須永にとって、逆に手首のひねり方で球種がばれてしまうのではないかという問題があった。そのことについて森士監督は、
「須永の特徴でもあるはずの手首の使い方が逆にスクリューを混ぜることで球種が読まれやすくなるのではと思って練習中にビデオを使って見てみたんです。そうしたらやはりスクリューボールの時だけ少しわかってしまう気がしたんです。これでは魔球の意味がないですから、何とかしないといけないと思っていました」
と当時のことを振り返る。須永と森士監督はあらゆる試行錯誤を繰り返した。そうして遂に編み出したのが、須永式とも言うべき「スクリューボールの進化版」なのである。
それは一体どういうことなのか。須永に直接聞いてみた。
「僕の場合、手首で球種がばれないようにしたいと考えたので投げ方を変えました。あと元々スクリューボールは内野ゴロを打たせるためのボールとして覚えようとしたのだから、あまり鋭い変化はいらないと考えたのです。そうして考えたのが今の投げ方かな。ボールをわしずかみに持って縫い目に良く引っ掛けてそうしてから窓を拭くように投げるんです。これでストレートとはあまり変わらない投げ方になりました。そうして手首を逆にあまり使わないから回転がそれほどなく、左右に大きくぶれながら微妙に落ちるボールになるんです」
これが須永式スクリューボールの真実、須永による須永だけの魔球なのである。その不規則な変化に捕手を務める滝沢雄太選手も、最初は捕球することさえも苦労したという。
苦心の末生まれた魔球・スクリューボールを引きさげて甲子園に乗りこんできた須永は、大会ナンバー1左腕と呼び声の高い評価を得ていた。だが、甲子園での須永はどこか様子がおかしかった。
いきなりの封印
甲子園は思いも寄らないめぐり合わせを用意してくれた。浦和学院は大会2日目の第4試合で春の選抜の覇者、兵庫県代表・報徳学園と対戦することが決まった。「打倒・報徳」を目標にしてきた須永にとって、これ以上にない組み合わせとなった。
そして迎えた決戦当日。須永は序盤、報徳打線を相手にストレートとカーブのコンビネーションで三振の山を築く。秘密兵器と言われていたスクリューボールは影を潜めた。須永の好投に打線も応え、中盤に逆転、さらには終盤に突き放し、春の選抜では終盤捕まった須永も、ストレートの球威がまったく衰えず抑えきり見事7対3で勝ち。春のリベンジを果たしたのである。
しかしこの試合、須永はスクリューボールを殆ど使わなかった。目立ったところで使ってないだけかとも思われたが、須永の口からは驚くべき言葉が帰ってきた。
「あの試合は自分が春からどのくらい成長したかがはっきりわかる試合だと思った。だから春からストレートとカーブのコンビネーションがどのくらい良くなったかを見たかったんです。それで前半うまく行きすぎたんですよ。それで6回くらいから使おうかなと思っていたんですけど、6回にチームが大量得点を取って逆転してくれたからこのまま行こうと思って……。だからあの試合は1球もスクリューは投げていないです」
スクリューボールを使わなかったのは須永のプライドがそうさせたのだ。報徳戦だけはどうしても春の借りを返したかった。投手としての意地である。須永は続けてこう語った。
「2回戦は使おうと思っていたんです。でもあんなことがあったから……。」
須永の身に何が起こったのだろうか。
3球
2回戦は愛媛県代表・川之江高校。須永は前半から積極的に飛ばしていった。スクリューボールを時折混ぜながら相手打線を封じていく。一見して順調に進んでいく試合。
しかしそれは3回に起きた。
川之江の4番・鎌倉健選手にホームランを浴びた直後のことである。須永がマウンドで左手を見ながら何かを気にしていた。
「あの時は2回あたりから爪が気になっていたんです。何か引っかかるなと思って。そうしたら3回に爪がはがれてしまって。それでホームランを打たれた時に、爪を見ながら残りをどう組み立てていこうかって悩んでいたんです。カーブとスクリューは使えないんじゃないかって思って」
それでも須永は大会ナンバー1左腕の意地を見せ、8回まで川之江高校をストレート中心に打たせて捕るピッチングで2失点に抑えていた。
しかし須永の指は限界に達していた。9回には5対5の同点に追いつかれ、そして10回裏には遂に力尽き、サヨナラ負けを喫してしまったのである。夏の大会のために練習してきた秘密兵器は甲子園で3球しか投げることができず、須永は甲子園を去っていったのである。だが須永は、
「正直、スクリューボールをもっと使ってみたかったです。全国の舞台でどれだけ通用するのかわからないですから。それがあんな形で負けてしまって悔しかったです。今度は甲子園でもっと投げられるようにしたいです」
と力強く語る。
そして15年の春へ
甲子園から2ヶ月以上が過ぎた秋季関東大会、そこには甲子園での悔しさをバネに更なる進化を遂げようとしている須永の姿があった。須永はこの秋季大会でスクリューボールを交えた幅の広いピッチングを見せてくれた。
決勝では強豪、神奈川県代表・横浜高校を相手に7回まで2安打無失点のピッチングを披露。8回に味方のエラーなどで3点を失い1対3で逆転負けをしたが、秋季大会準優勝で春の選抜大会の切符を確実なものとした。須永自身も今大会、4試合24イニングスを4失点、自責点0、防御率0.00と完璧な投球内容だった。
今では1試合の球種の割合もストレート5割、カーブ2割、スクリュー2割、その他(スライダー、チェンジアップ)1割と、スクリューボールも屋台骨の武器として、だいぶなじんできたようである。
須永にこれからの目標を聞いてみた。
「目標はもちろん高い所に持ってないといけないと思っていますから。そういう意味では、松坂さん以来の春夏連覇の投手になりたいと思っています。そして日本最高のスクリューボーラーになることかな。でかすぎる夢ですけど」
最近の高校野球界は、平成12年の夏の覇者・和歌山代表・智弁和歌山高校、同13年の夏の覇者、西東京代表・日大三高校、そして昨14年の夏の覇者、高知代表・明徳義塾高校のように強力打線を擁した学校が高校野球界の頂点に立つ「投低打高」の傾向が続いている。しかし、須永はそんな強打者達をねじ伏せての甲子園春夏連覇を見据えている。
まだその全貌を見せていない高校投手ナンバー1のスクリューボーラー。彼が繰り出す須永式「スクリューボール進化版」が今年の春の選抜で主役となることは間違いない。
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